松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

ひめ蛍をもとめて

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一昨日6日に雨の中、友人3人で丹波市氷上町にある内尾神社へ撮影に行きました。

京都市内からの道中は、あいにくの雨でしたが、撮影をはじめる7時頃からは、すっかり雨も上がり絶好の撮影日和となりました。しかしながら、まだ季節的に早かったのか遅かったのか分かりませんが、少なくとも僕の目には、1匹も映ることはありませんでした。幸い近くの川でゲンジボタルを1匹見つけたので今回はよしとしました。

また近いうちに時間が取れれば、挑戦したいと思います。

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道中恐竜の里や丹波竜化石工房などにも寄ったのでそれなりに充実しました。

今読んでいる本

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僕の読解力の無さが露呈されるなかなか読みづらい本でした。

要約するのはおこがましい話ですが、僕が理解できたのは

【①資料集め②咀嚼③想像力や感情を刺激しながら意識の外で孵化を待つ

④ユーレカ!⑤現実にあわせてアイデアを具体化・展開する】のこの辺りでした。

書かれた時代背景も初版に関しては1965年と僕とほぼ同い年です。

それでも基本的な考え方は、いつの時代も同じなんだなと思いました。

僕も何冊か翻訳された啓発本を読んだことがありますが、今まで読んだ中で一番苦戦したような気がします。それとユニークなのがこんなに薄い本なのにあとがきが、1/3くらいあってそっちのほうが断然読みやすかったのが印象的でした。

 

 

f:id:rjmatsumura:20230605052713j:imageこんなに薄いのに厚表紙です。凄い強気な姿勢がうかがえます。

僕は、今回この本を読んで一回目の気付きとして感じたことは今も昔もアイデアを生み出すのにたくさんの理由がいらない様な気がしてきました。ここに書かれてある

①資料集め(可能なだけたくさん集める)

②咀嚼(そしゃく)

③想像力や感情を刺激しながら意識の外で孵化(ふか)を待つ

④ユーレカ!(ギリシャ語で、われ見いだせり!)の意から

⑤現実にあわせてアイデアを具体化・展開する

これに尽きるのでしょう。

 

とこんな感じで本日のリハビリブログは終了です。

 

 

ブログの書き方ってどうでしたっけ?

ブログをお休みして約2年になります。身体的には、全く問題ありませんでしたが公私ともに色々と悩むところがありとても記事を書く気にならずガッツリサボってしまいました。そしてまた証拠にもなくブログをはじめようとパソコンにむかいはじめました。

とはいうものの始めるにあたりタップリの話題を用意していた訳でのなく正直何から書き始めればよいものかと・・・。

とにかくリハビリがてら少しずつ書き進めていきたいと思います。

Googleアドセンスとかページがぐちゃぐちゃになっていて些か見苦しいとは思いますが、近いうちにサイトの引っ越しがてら一日も早く見易くなるよう頭をグイっとひねりたいと思います。

そういえば、この約2年間にカブ(CT125)に乗って友人達といろんなところに遊びに行きました。なのでそんな話題もはさみながら僕のライフスタイルを詳らかに紹介していくのでもし楽しめそうであれば、是非気に留めておいてください。

 

 

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松村堂のmasterです。

昨年あたりから公私とも色々と忙しくなり

しばらくブログを更新していませんでした。

「今日こそは…。」と、PCの前に向かうのですが

なかなか筆が進まず、ずるずると今日に至りました。

と言う訳でいったん松村堂は、お休みすることにしました。

長い間ご購読いただいた皆様には、

ただただ感謝しかありません。

また沢山の情報をお伝え出来る時が来たら必ず

情報発信を再スタートさせたいと思いますので

それまで皆さんお元気で楽しい毎日をお過ごしされますこと

心よりお祈りいたします。

 

                               松村堂 master

老後貧乏になる要因とは

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 京都も緊急事態宣言が出たものの東京都と比べCOVID-19(コロナウイルス)の感染縮小に大きな効果が表れていないような気がします…。それにしても日々、ニューノーマルという新しい世の中の動きに戸惑いながらも少しずつ馴染もうとする国民の努力やメディアの扱い方、そして職場環境を見ているとリアルに各方面の大変さを実感させられる今日この頃です。僕としてはこれからの世の中どのように変化していくか興味津々です。さて今回は、そんな目まぐるしい変化を続けている世の中で如何にうまく適応していくかについて考えてみたいと思います。昔から人間は、年齢を重ねるにつれ考え方に柔軟性が無くなり徐々に自分の意見を曲げなくなるとされています。よくいう「頑固な…。」と言うヤツですね。と言う訳で頑固故のデメリット引き起こすであろう「熟年者」をテーマにしてみたいと思います。

 

年収が減っても動じない頑固な貧乏

 まず最初に貧乏な老後を送らないためのポイントからみてみましょう。一般的に会社員の場合、多くが50歳で昇給はストップします。そして55歳で役職を離れ、役職分だけ給料が減り、60歳で定年退職…。最後に再雇用制度を活用して65歳まで無理くり働くことになるパターンだと思います。要するに60歳からの給料はグ~ンと半分くらいになり、ひたすら右下がりの収入構造へと変化し続けるわけです。

 

本当の意味で難しい年齢

 厄介なのが50代です。この年齢に差し掛かると給料が上がり、誰もが少し贅沢を覚えてしまう年齢でもあります。そこで問題なのが、贅沢を覚えた50代の家計です。この段階になると思考回路自体がもはや右下がりになる収入構造に追い付けないというか順応できなくなってしまうことが考えられます。イメージするならば、高収入だった時の消費生活にマヒしているのか、収入が減っても気にせず何となく、これまでと同じような外食や食生活を送り、趣味のゴルフにジム通い。毎月の決まり事であるかのようにショッピングなどを続ける家庭はまさに要注意です。

 

当てにし過ぎの退職金

 収入が減っているにもかかわらず、生活スタイルを変えることなく過ごしていると、確実に家計は破綻してしまいます。それでも何故か、安泰かのような幻想を抱いてしまうのは恐らく「退職金」のせいかもしれませんね…。考えるに退職金によって、前述したような破綻の危機が先送りされるので、本来は、早急に対策が必要な家計の見直しも、破綻の自覚がないため後回しになってしまうのです。そして気が付くと取り返しがつかないほどゲッソリ減ってしまうなんてことも十分に考えられます。たとえば、50代の給与が手取りで月50万円としましょう…。そして60歳になり再雇用で働くようになり給与が半分の月25万円と激減したという場合は、いくら退職金があるからと安心してそれまでの生活スタイルを続け生活水準を下げなかったら、年金生活が始まるまでに今まで蓄えたであろう貯蓄をすっからかんにしてしまうケースも大いに考えられます。まさにヒモジイ老後へまっしぐらです。

 

溺愛貧乏の危険性

 例え収入が乏しくなったとしても溺愛する子供がいる限りミジメさを嫌う親は、「このくらいは持っていて当然」「買って当たり前」というお金の使い方をするものです。そういう家庭は、子どもにもそれが自然と伝わっているのです。そして子どもは、それが「常識」だとしてとらえていきます。まだ、自分では十分稼げない子供達に、必要なものを自分でお金の工面をして買うことを教えるのではなく、必要なものだからと親が買い与えてしまうのです。こうして育った子どもは、親にねだるのが上手になります。スキルアップのために、資格取得の費用をねだったり、婚活のためにとブランド物の洋服をねだったり。「必要なのだから」と言えば、親がなんとかしてくれると思っているわけです。子どもが親世代になっても、「孫の教育のために、こういう習い事が必要なので、援助してほしい」とねだることもあるでしょう。そして親は、子どもにも孫にも、いい顔をしたいので、ねだられるとつい嬉しくなって、おもちゃやランドセル、そして洋服も買ってあげたくなってしまうのです。

子どもが困っているのであれば、助けてあげたいと思うのが親心です。ですが、それも限度があります。後先考えずに、援助をし続けていったら自分たちの老後のお金は無くなります。そもそも一般的に親というのは無尽蔵にお金を持っているわけではありません。自分たちの老後のお金を切り崩しながら、援助を続けていって、貯蓄が無くなったらどうなるでしょう? 毎月の年金では生活が困窮するようになって、子どもに頼り迷惑をかければ、本末転倒です。

 

最後に

 いずれにせよミジメさを嫌うあまり、身の丈以上の支出にも気がつかないと、確実にミジメな老後へまっしぐらです。もし本当にミジメでない老後を目指すのであれば、「こんなこともできない生活は『ミジメ』だ」という思いにとらわれないで、身の丈に合ったお金の使い方、即ち本当に自分にとって必要なものを見極める力をつけることのほうが重要です。「お金さえあれば、満足のいくものを買える」のではなくて、自分にとって、「何が心を満たすもの」であるのかも見つけていきましょう。そうすれば、今の支出も見直せて、加えて貯蓄を増やすことも十分可能になります。なにより「ミジメな生活はイヤ!」に覆い隠されている落とし穴にも落ちないですみますからね…。

 

 

人のダメな行動を考える

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 僕の住む京都は、朝から今年初めての雪らしい雪が降りました。周囲は薄い雪化粧にとどまり、路面の積雪には至りませんでした。ところで京都を含む関西三府県も明日から緊急事態宣言の対象になるようです。それにしてもコロナウイルスによる社会の変化はすさまじいものがあります。前回の時より少し緩い目とのことですが、僕たちの生活スタイル(ニューノーマル)はこれまで以上に「必要なもの」「不必要なもの」が明確になり、淘汰されていくのだと実感します。もうすでに変化は表れていますけどね…。

 

取り残される人とは

 近頃オフィスという場所は徐々に不必要なものとして挙げられています。コロナによってもたらされた変化は、テレワークを推進させ、通勤、オフィス在中というこれまでの通念を覆しつつあります…。また、今まで当然と言われていたビジネスの常識は、そうではなくなってきているとも言えます。そこで今回は、こうした新しい時代の変化にさらされながらも、その変化に順応し生き残る方法について考えてみました。そもそもネガティブな思考の人は、不安定な情勢に不安を感じながらも現状維持しかできず、徐々に弱っていく傾向にあります。これだけ早いスピードで変化が求められている中で、時代に取り残されてしまう人は他にどんな兆候があるのでしょうか…。

 

朱に交われば赤く染まる

 僕たちは社会的にいろんな人との関わり合いの中で生きています。なので他者を無視できませんし、なんなら様々な影響を受けたりもします。たとえば、普段から他人の悪口や不平不満ばかり言っている人や尊敬できない人と一緒にいると、当然ながら自分も同じような思考になってしまいます。自分の人生にとって本当に大切なものを見極められない状態になっていれば、ストレスや疲れが溜まりに溜まるでしょう。その結果、どうしてもうまくいかない…。途方に暮れてしまう…。体の体調がず~っとよくない…。など、悪い状況が続いてしまい、気が付くと新しいことを始める余裕もなくなり、いやおうなしの現状維持を続けてしまうのです。

 

生ぬるい環境から抜け出せない

 転職しようと思いながら同じ仕事に就いていたり、二度と体験したくないことをまた繰り返していたり、不要だと思っているのに続けてしまっていたりと、人はなかなかそんなスパイラルから抜け出せないものです。心理学の世界では「現状維持バイアス」というそうです。要するに、人は変化を避けて現状を維持しようとすることだとか…。もう少し具体的にいうと、今の現状に大きな問題がないならば、わざわざリスクを取ってまで変化する必要はないと考えてしまう傾向にあるということです。人はこうした毎日がずっと続くと考えて、なかなか今のこの現状を抜け出そうとはしないのです。いくら「やろう」と思っていても、「時間がない」「本当にやりたいのかわからない」などといって結局なにも実を結んでいないということは、今の自分のベストなものを選ばずに だらだら過ごしていることを意味します。 気づいたら同じことをしていた、なんてことがあるとすれば、恐らく自分自身に変革をもたらすことができていないということなのです。これは、恥ずかしながら自分にも大いに当てはまっています…。

 

「別にいいんじゃない」はダメ

 ビジネス的警告の例えに「茹でガエル」というものがあります。カエルをゆでて食べるということではありません。カエルは、熱湯に入れると当然、驚いて逃げ出します。しかし常温の水に入れて徐々に水温を上げていくと逃げるタイミングを失い、最後には死んでしまうそうです。変化に気づいていたのに水から出ることができなかったカエル…。世にも恐ろしい例え話でしょ。今の世の中、現状維持のままではおかしいと感じることは多々あるはずです。せっかく気づいたのに、「まあ~、いっか」と、ないがしろにしてはいないでしょうか。現状維持が癖になってしまったら、本当に変化が必要なときになったとしても、何も行動できず時代に淘汰されてしまうことになるので、そうならないよう十分に注意しましょう。

 

自分にとってベストな断捨離をする

 これだけ情報やモノがあふれている社会では当然、タスクも増えてきます。時間やお金など、何もかもが無限にあるわけではありません。それなのに、自分の身の回りにあるものすべてが、自分にとって大切なものや必要なものに見えてしまってはいないでしょうか。そういった色々なしがらみに囲まれて生きている状況というのは、ある意味、自分の人生をコントロールできていないということでもあります。そもそも常に何かを背負ったままの状態で、俊敏な動きはできませんからね…。身の回りのモノというのは知らぬ間に増えていくものです。そして気づいたら、どこから手をつけたらいいのかわからないほど増えてしまい何時までも片付けられません。そしてどんどん悪循環に陥り、結局何もできずじまいでやる気を失い、揚げ句の果てに自信まで失ってしまうのです。なのでそうならない様、断捨離できる習慣を何が何でも身に付けましょう。

 

ひょっとして我慢が癖になっている?

 「みんな頑張っているんだから自分も頑張らないといけない」「歯を食いしばって頑張らないと成功はできない」などという考えをいつの間にか持ってしまってはいないでしょうか。やりたくないことを我慢してやり続けることは、やりたいことを見つけられない道を自ら進んでいることと同じです。我慢ばかりしていると夢中になれるものが見つからなくなることさえあります。「そういうものだ」とか「仕方がない」などと言っていては、本当にやりたいことへの気持ちを抑え込んでしまう癖がついてしまいます。なので、とにかく流されず、思いこまずにそっち方向へ引っ張られないような思考を日々養うようにしましょう。

 

最後に

 常日頃から「普通は」「一般的には」「みんなやってるから」などという言葉を使っているとしたら気をつけたほうがよいでしょう。何故なら今、世界ではとんでもない変化にさらされています。コロナウイルスももちろんですが、科学技術は類を見ないスピードで発展しており、今まで空想していたことが今日には実現していることだって夢ではなく、これまでの常識だとされているものはただ更新されていくだけなのです。つまり従来の正しかった事例は、次の瞬間から失敗事例にもなりうるわけです。そもそも、僕たちは知らない間に教え込まれた価値観に縛られて生きています。だからこそ、これまでの当たり前や常識と考えられてきたものに対して「本当にそうだろうか?」という疑問を持たない状態は非常に危険であるといえるでしょう。

コロナによる社会的な大きい動きの中で、新しいやり方が模索され始めています。今までのやり方がこれまでどおり正しいということはなく、常識や固定観念で凝り固まった頭のままでは、大きな変化の中に埋没してしまいます。今のこの社会における大転換に焦燥感を感じることもあるかもしれませんが、ただそれと同時に、物凄い大きなチャンスでもあるのです。なぜなら、この瞬間こそ、自分も大きく変わり、成長するチャンスだからです。時代は常に流動的ですが、これほど流れの速い時代はこれまで類を見なかったかもしれません。だからこそ今の現状がベストなのかを考え続け、不必要なものは即座に捨てるということが大切なのです。それは考え方や習慣、人間関係にも当てはまることだと思います。これからは、本当に大切なものは何かを選び取り、不要なものを捨て、本当にやりたいことを達成することを目指しましょう。とにかく重要なことは、つねに自分の現状を疑い、余計なものを捨てるということです。そうすることで本当に大切なもの、本当にやりたいことだけが自分の中に残るはずです。混沌とするこれからでも、自分自身を見失わないためにできることから始めてみましょう。

 

 

自分は時間を正しく使っているか

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 昨年は、本当に激動の一年でした。だからといって今年はそうでないと油断する訳にはいきません。もしかすると昨年以上に激動の一年になるかもしれませんからね…。COVID-19も一向に収まる気配がなく、医療崩壊も秒読み段階のようにも見えます。景気についても日本はもとより世界中で経済に大きな影を落としているようです。そんな中今回は、お金同様にとても大切な「時間」をテーマにしたいと思います。昔から『時は金なり』ということわざがあります。 そもそも時間はお金と同じように非常に貴重なものです。なのでそんな貴重な時間を無駄に浪費してしまうことなく、できる限り有意義に使えれば良いなと考えます。そこで、自分自身が如何に正しく時間を使いこなせているかについて考えてみることにしました。

 

貴重な時間を無駄遣いしていないか?

 人間は太古の昔から第二次世界大戦の終結くらいまで、庶民のほとんどは恐らく生きることだけが目的だったように思います…。たとえば、狩猟や農耕などに時間を使っていたのも生き延びるための手段なのです。戦火の中、防空壕を掘ったり疎開するのもすべて生き延びるためなのです。しかしながら、気が付けば食糧はいつでも気軽に手に入るようになりました。なんなら捨てるほど食べるものが有り余っている始末です。因みに消費者庁のHPをのぞいてみると、日本では、年間2,550万トンの食品廃棄物等が出されています。このうち、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は612万トン。 これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食糧援助量(平成30年で年間約390万トン)の1.6倍に相当するとのことです。 また、食品ロスを国民一人当たりに換算すると"お茶腕約1杯分(約132g)の食べもの"が毎日捨てられていることになります。そして命を脅かす戦争も、今の日本ではほぼ皆無に等しいといえるでしょう。

 

暇な時間を持て余すとは

 そうなると、ただ日々の生活に流されるだけでも人は生きようと思えば、生きていくことができるということになります。さらに言えば、「生き延びる」という目標を失った人間は、膨大な暇な時間ができたと考えることもできます。そこでこの「暇な時間をどう使うか?」となります。だからこそ、生きること以外に何か目的、目標、価値を置かなければならないのです。そうしないと恐らく僕たち人間は夢も希望もないとてもつまらない一生になってしまうかもしれないからです。

一般的に僕たちの多くは小・中・高で12年間、人によっては大学に行き合計16年間の学校生活を過ごします。社会に出て働き、1日の仕事を終えたら今度はプライベートな時間を過ごします。ただただテレビを見ながら食事をして寝るという日々の人もいるでしょう。週末はショッピングに行き、長期の休みは旅行に行くなど…。そして更に将来をイメージすると結婚・出産を経て子育てをし、子どもがまた社会に出たころ、定年退職で引退…。老後は孫の世話をしたり仲間とお茶したり、のんびりと過ごすので。そう考えると、仮に80年の人生(僕の場合は100歳まで生きるつもりです。)は壮大な暇つぶしとも言えるでしょう。

 

時間こそがすべての人にあた得られた平等なチャンス

 人は何かを成しても成さなくても、時間は平等に与えられそして過ぎていきます。映画や旅行も暇つぶしですし、テレビや読書も暇つぶしです。仕事は生活の糧を得るという目的はあるものの、それで1日の大半が過ぎますから、やはり暇つぶしのひとつと考えられます。そしてその暇つぶしを、自分や社会にとって価値のあることにして過ごすのか、価値のないことにして過ごすのか、大きく二つにと分けられます。たとえば、通勤や通学の時電車内などでスマートフォンに触れている人の画面を覗いてみると、たいていの場合ゲームかSNSなどをしています。それらは、基本的にやってもやらなくても、誰も文句を言わないし、誰も困らないでしょう。でも仮に自分の仕事がプライベートでも役に立つとしたらどうでしょう?たとえば、自分はシステムエンジニアという場合、その知識を活かしてプライベートな時間に地元の子どもたちなんかに簡単なゲームの作り方など、チョッとしたプログラミングを教えてみるということができます。これも勿論、やらなかったとしても誰も文句を言わないし、誰も困りません。しかし、やれば子どもたちに価値を提供し、喜ばれることになります。そしてさらに言えば、自分の名前や、していることが地域に知れ渡り、コミュニティができるかもしれないし、地元の学校からも出張授業の依頼があるかもしれません。これを有料でやれば副収入にもなるでしょう。

 

最後に

 いずれにせよ何で暇つぶしするかは個人の自由です。そして、何かを成しても成さなくても、僕たちには同じ時間が与えられ同じように時間が過ぎていきます。そして大部分の人たちが100歳を迎える前にこの世を去り、自分の孫が寿命を迎えるころには、自分を直接知っている人間はこの地上からいなくなるのです。そう考えたとき、どうせ一度の人生です。自分が自分であるために、自分が生きた証しを後世に残すために、せっかくなので価値ある時間を使う努力をしてみてはどうでしょうか…。