本当は、クリエイターになりたかったのです。 前編
やっっと明日お休みです。3日から出勤してたのでまる8日働き詰めでした。
幸い肉体労働ではないので体力的には全く疲れていませんけどね。
しかしながらその昔は、年間で30日休みがなかった仕事をしていた時もあって
今で言うところのブラックなんたら系?に該当するかもしれませんね。
それでもその時代はそういうのが当たり前な空気で僕自身もそう感じてました。
そして時の流れとともに世の中では週休2日制とか3日制とかどんどん休日が
増えている企業がクローズアップされあたかもそうでない会社はブラック・・・・。
てな感じでした。考えてみたら第一次産業系の人をはじめ商業関係も
はたまた個人商店やクリエイターの方々に至るまでそんなにたっぷり休みなんて
取れてないんでは無いのでしょうか。個人で商売をしていて不眠不休で仕事をしていたら労働基準局「あなたの仕事はブラックなので休みなさい。」なんて言ってくる?
うんな訳ないですよね。もちろんこれは、極端なお話で雇用されている皆さんは
そうはいきません。わかってますよ僕も今、雇用されている身なので・・・・。
要は意識の問題ですよね。楽しくやりがいを持って仕事をしていればそれがそんなに重大な過失とは、感じれずその逆の場合のみストレスを感じ「普通じゃない・・・・
損をしている。」とか感じてしまうのかもしれませ。とにかくどんな環境でも
稼いで生き続けることは、大なり小なり大変なことですね・・・・。
無我夢中だったのに
だいぶさかのぼる話になるのですが、6歳そう幼稚園の頃大阪の東中本幼稚園に通っていました。確か緑橋というところだったと思います。住んでいたところが森之宮で
大阪城公園で親戚の兄たちとよく遊んだことを記憶しています。
で、その時大阪城の絵を描いたみたいです。当時の記憶では、そんな絵を描く事なんて
日常茶飯事なのでどの絵を描いたかなんて当然覚えている訳がありません。
で小学校1年の時にサクラクレパスからあなたの絵が入賞したので天王寺美術館に
来てくださいとの連絡があったそうです。
で、賞を頂いたもののなんせ小学1年生ですからその時の感動した記憶が、
全くありません。僕の記憶に薄っすら残っているのは両親と一緒に出掛けた
事だけが今となっては唯一の思い出かも・・・・。
そんな事がきっかけになったかどうかは、定かではないですが、どんどん絵を好きになって行きました。学校でもみんなに褒められたりリクエストを受けるたび子供ながらに
燃えました。学校のノートをはじめ教科書、机、廊下の壁に至るまで描きまくりました。でも今は、ただの社会人です・・・・。本来この話の流れから行くとこの道で食べていけるクリエイターになってる感がありますがでも今はただのサラリーマンです。
はじめての挫折
小学校も高学年になり絵に対する意欲もますます湧いてきて文集の表紙や先生に頼まれて描く挿絵やetc.etc・・・・。特に燃えたのは年賀状の裏面の干支を描くのが大好きでした。冬休みが終わって先生に褒められる事だけを期待して頑張ってました。
そしてついにその時が来ました。6年生の卒業文集のクラス別と学年全体の表紙作成を
依頼されたのです。さすがにそれぞれテーマを変え気合を入れて描きました。
しかしながら先生はほかの生徒にも依頼してたのです。要はコンペですね。で僕はみごとに卒業文集の表紙は書かせてもらえませんでした。当時自分の中では、だれよりも
絶対上手かったはず!写実的にも問題なし!自信たっぷりでした。でも結局のところ
別の生徒の作品が選ばれました。クラスの表紙は僕のでしたが、「そんなのどうせお情けだろ!」ひがんでいた事を想い起されます・・・・。
今考えるとその頃からグンとペンから遠のきました・・・・。
それと一緒に学業まで遠のきました・・・・。
To be continued