松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

靴屋時代

 

靴の今昔物語 スニーカー編

 

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京都で父親が靴屋を始めるという事で約1年の研修期間を大阪京橋で終えいよいよ京都でのデビューです。その当時1980年代は輸入スニーカーの第一次黄金時代でした。

そんな中、新しい店舗としては是が非でもそのブームに乗るべくスニーカー部門を大きく拡大して展開することになりました。そんな作戦とは知る由もない僕といえばその当時スニーカーには、たいして興味を持っていませんでしたのでその話を聞かされた時、正直あわてました。それでも動き出したプロジェクトは止めることはできません。そもそもそれで行こうといった父本人もスニーカーの知識がほとんどなく「そんなのは若い者の仕事・・・・。」と訳の分からない理由で結局僕が担当することになりました。

スニーカーの研究がはじまる

修行に行ってた靴屋は、当時7店舗展開していてそのうちの1店舗のみがスニーカーをコーナー展開していました。という訳で早速その店に教えを乞う為に出向くと、担当者は大学生のアルバイト君でした。このアルバイト君との出会いが大きく僕の価値観を変える事になりました。その時僕は二十歳でアルバイト君も二十歳でした。そして意気投合!たぶん・・・・?アルバイト君はスニーカーはすごく好きで色んな所に足を運びスニーカーの勉強をしてると言ってました。僕は話を聞いているうちにこのアルバイト君の様にスニーカーに詳しくなりたいと強く感じるようになりました。

オープンまで時間もあまりなかったのでとにかく取扱いメーカーのカタログを手当たり次第かき集め主要ブランドの特徴などプロの店員としてカッコが付くように必死で勉強しました。勿論、いろんなお店に足を運び時には購入して商品知識聞きだし、時には話だけ聞きにいったりと我ながらその当時は結構頑張りました。特に足を運んだのが神戸の三宮から元町に続く俗にいう「高架下」というJRの高架下にあるショップ街です。

あと梅田のESTのアスリートフットにもよく行きました。その当時スニーカーといえばやはりアメリカが本場で当時チェーン展開していたビッグツーが「アスリートフット」と「フットロッカー」です。

 

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 スニーカー黄金時代

当時この店舗は、今で言うところのメーカとのコラボレーションを定期的に出していて

他店との差別化を成功させた最初のスニーカーショップだと思います。特に「フットロッカー」は、ナイキとのコラボレーションでリミテッドエディションなるものを定期的に展開していました。リミテッドエディションといってもその時人気のスニーカーにフットロッカーオリジナルカラーやキャンバス素材をレザー(革)で作ったりととにかく当時のマニアには、どれもヨダレものでした。しかしながら今もそうだと思いますが、フットロッカーは、日本では展開されておらず手に入れるには、直接買いに行くか並行輸入を取り扱っている店舗で無いと手に入れる事はできませんでした。

僕が働くお店は、正規商品販売店だったので並行輸入を取り扱えない取り決めがあったので当然扱えませんでした。それでも後に規制も緩和され少しずつ扱うようにはなりましたけどね・・・・。当時人気を博していたのは、ナイキコンバースアディダスプーマ、というところが店の半分以上を占めてましたね。あとアシックスやニューバランスブルックスエトニック、パトリック、トップサイダーにプロケッツ等々・・・。その当時ナイキで有名なのが、「ワッフルトレーナー」という靴です。これはアメリカ映画のなかで使われ一躍有名になった靴ですね。「マイウェイ」だったかな・・・?

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因みに上の写真は復刻版のものです。日本で爆発的に売れたのはこの後に出た「コルテッツⅡナイロン」の赤/シルバーですね。これが出た時マイケルジャクソンがプロモーションか何かで履いていて、それを知ってか知らいでか田原俊彦が履いてテレビに出ていたのがきっかけだという都市伝説・・・・。

 

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この時ナイキの方から勝手に商品を使うなとジャニーズにクレームが入ったという話がありました。一時期ナイキは、日本の九州、久留米で製造していた時期がありました。その時はアサヒシューズが請け負っていたと思います。

コンバースは、圧倒的にオールスターが男女ともにバカ売れしていました。当時の価格は、値崩れする前で7,800円で販売してました。とにかくサイズが揃わなくて合わないサイズを無理やり履いていたお客さんが沢山いてましたね。今は生産基地がアジアになっていますが、当時アメリカ製しか無く付加価値も高かったですね・・・・。なんてったって当時はみんなアメリカ大好きの空気が蔓延してましたからね。

そういえばパトリックもそうですがイタリアで生産されていたりアディダススタンスミスナスタゼカップ、オフィシャルなども生産国はフランスでした。革もいい素材のものが沢山ありくたびれてくるほどにいい味が出てきました。コンバースワンスターやウエポンなどで使われていたフルグレインレザーは、硬くてどうしようもありませんでしたが、少しずつ足になじみなれたころに底がなくなるというこれもまた、なんとも味のあるスニーカーでした。

そして少し遅れてリーボックLAギアケイパもありましたね。この時は、第一次フィットネスブームでリーボックEX-O-FITFREE STYLEが爆発的に売れました。アビアなんてのもありました。このアビアは、当時のリーボックのテクノロジーを超えたと話題になったシューズです。カンチレバーソールていうのが話題でしたね。後にヒットを恐れたリーボックがアビアを買収したとされています・・・・。

スニーカーの流行は常にその時話題になった映画や音楽と密接な関係にあります。当時ヒット商品を見つけるのに海外の音楽雑誌などでミュージシャンが履いている靴などよくチェックしていました。この手の記事を書きだすと止まらないのでまた今度は断片的に書きたいと思います。