松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

社会人に成ってから今日まで

 

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今さらですが、僕のプロフィールです

社会に出た頃は、「これでやっとお酒が飲めて、タバコが吸えてそして自分で稼いで何でもできるぞ。」だけを頭に描いていました。未成年という足枷が、はずれて自由になった気分でした。

 

この頃は、まだ自分の行動に必ず伴なってくる「責任」というものがあるなんて夢にも思っていませんでした・・・。僕が仕事をし始めた事は、バブルが膨れはじめた頃です。18歳で免許を取りすぐに車をローンで買いました。半年も経たないうちに鳥取山中で谷底に落ちる大きな事故をしました。そして車もないのにローンだけを空しく払い続けていたのが思いだされます。これが社会人デビュー最初のエピソードです。

 

仕事をし始めた頃は、その当時の上司に本を読めとやたら言われました。社会のルールや常識を実践から身に着けるだけでなく本からも吸収しろと言う事でした。また、目標を立てるにしても必ず、短期目標中期目標そして長期目標を持つようにともよく言われました。言われている内が花とも知らずに・・・。

 

それでも仕事は結構まじめにやってました。僕は、外で少し勤めた後父の事業を手伝い始めました。前回も少し触れたのですが父の事業を手伝う前は、ベルトの加工職人をしていましたので、このままベルト職人の道を進むものだと信じ込んでいました。仕事は本当に楽しかったのです。この段階で僕の行先は、家族によって狂わされてしまうことになるのです・・・。

 

父の事業は靴の販売会社でした。どうせ手伝うなら、しっかり目標を新たに立てる必要がありました。僕は、事業拡大そして多店舗経営を目指すべく頑張りました。しかし、世の中はそれほど甘くなくバブルが弾けそしてあの阪神淡路大震災です。店はそれほどダメージを受けませんでしたが、殆どの靴の仕入れ先である神戸の長田が、火災でほぼ壊滅となり仕入れが出来なくなってしまいました。

 

今思い出しても恐ろしい話です。それでもどうにかこうにか仕入れ先を確保しながら商売を続けていましたが、そんな中母親が倒れ、続けて父親まで病気に倒れました。最後の方は家内工業状態だったので一人残った僕だけで会社を立て直すべく努力をしましたが、力及ばず仕方なく会社を整理する事になりまいた。

 

後に僕自身わずかな元手で、サーフショップを友人と始め、しばらくしてさらにBARもするようになりまいた。サーフショップの方は、友人に譲りBARのみで生計を立てる事になりました。オープンして3年くらいは、好調でしたが、飲酒運転の取り締まりが日に日に厳しくなり駐車場のあるBARとしては近隣住民の通報の的となりました。

 

それでも通報に負けず2年ほど続けたのですが、益々経営が厳しくなる一方で店舗の改装をして存続するか閉店するか悩みました。その時妻が「一度、商売という呪縛から解き放たれたらどう?」と言われました。その時、僕の頭の中には、勤めるという選択肢がありませんでした。妙に納得した僕は店を閉め転職をする事にしました。

 

「どうせならやっぱり職人と思い」瓦屋さんに就職しました。今思うと無茶苦茶しんどかったけどこれは、これでとても楽しかったです。しかしこの瓦屋さんも、残念な事に倒産してしまいました。幸い僕は職人に毛の生えたくらいにまで成長していたので他の瓦屋さんから応援要請がそれなりに有りました。

 

そのまま続けても良かったのですが、世襲の多い業界なので独立は、難しく「ずっと使われるのもな~・・・」と思い再度転職を試みました。それが、僕が今いるバイク屋さんです。たまたま、若い頃に大型自動二輪の免許を取得していたのでここにしました・・・。こんな感じでなろうと思って始めた仕事は一つもありませんどちらかというと行き当たりばったり的転職劇ですね。なので僕は、これからもこんな人生を歩むような気がします・・・。