松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

日本の最低賃金を考えてみる

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 最近、僕の住む亀岡市もここに来ていよいよ氷の世界のような寒さになってきました…。バイク通勤の僕としては身が凍る思いです。しかしながらバイクディーラーで働く以上やはり通勤は、バイクだ!とチョッとむきになってる自分もいます…。それにしても世の中ではどんどんコロナウイルスが猛威を振るいだし、京都も1日で100人を超えちゃいました。それといよいよ本格的に「緊急事態宣言」や「医療崩壊」というワードが紙面を踊るようになり現実味を帯びてきました。死亡者も徐々に増えだすなど不安の材料は後を絶ちません。そうなると当然のことながら、経済的にも厳しい社会生活をおくられている人は益々不安になるでしょう。そこで今回は、そんな厳しい社会人の現状を少し調べてみることにしました。
今の社会において、もちろんすべての企業がそうだと言いませんが、厳しい賃金で働いている環境の中には質の高い人材を安い賃金で働かせることで、経営者を怠慢にした日本企業の現状があるのではと感じさせられます。その結果、膨大な数の消えるべき中小企業が生き延びてしまったと専門家もいっています。そしてこの非効率を是正する特効薬こそが最低賃金の引き上げだそうです。
 

最低賃金を引き上げが世の中を変える

 日本の国というのは先進国の中で最低水準の生産性とされています。そしてこれを高める方法は、ズバリ低水準にある「最低賃金を引き上げることだ」と専門家は結論付けています。それだけでこの日本は劇的に良くなるそうです。最低賃金が低いと、経営者は安く人を使えます。それで利益が出るから、経営者は頭を使わなくなり、機械化やIT化のための投資もしなくなってしまうのです。最低賃金の低さが経営者を甘やかして、本来高められるはずの生産性にわざわざブレーキをかけているのです。

実際に、日本の最低賃金は先進国の中で最低クラスのようです。先進国最低であるスペインに次ぐ低さだとか…。また、1人当たりGDPに対する最低賃金の割合は、ヨーロッパ諸国が50%前後であるのに対して、日本は34.9%と低水準なのです。

 

不当な最低賃金

 驚くことに日本の最低賃金はどうやら不当に低く抑えられているようです。2016年のWorld Economic Forum(世界経済フォーラムのランキングでは、日本の人材評価は世界4位です。ほかにトップテンに入っているのは、人口の少ない国ばかりです。人口が少ない国は異常値が出やすいからですが、そのような傾向がある中でトップテン入りしている事実は誇っていいでしょう。ちなみに日本の次に評価されている大国はドイツで、11位。日本の人材評価は、人口の多い先進国で最高レベルです。にもかかわらず、最低賃金は先進国で最低水準ですから、不当と言っても言い過ぎではないでしょう。

では、どうすれば最低賃金を人材評価に相応しい金額にできるのか?専門家曰く、考え方として経営者が自ら進んで最低賃金の引き上げに賛同することを期待してはダメだそうです。何故なら経営者は人手不足に陥らないかぎり、できるだけ安く人を雇おうとする生き物だからだそうです。市場原理に任せると、基本的に人件費は下がるものだと考えたほうがいいでしょう。なので賃金を上げるには、嫌がる経営者を無視して国が強制的に引き上げるしかないのです。現在コロナ禍で政府が盛んに自粛を呼びかけるような感じでしょうか…?それが最低賃金制度の本来の主旨でもあるのかもしれません。

これは人権上の問題だけでなく、日本の生産性の低さを温存する一因にもなっていると考えられています。なので放っておくと、一部の経営者はこうやってズルをして、少しでも人を安く使おうとエスカレートしていくのです。従ってそうならないように、国は最低賃金を引き上げたうえでしっかり目を光らせておくべきなのです。

World Economic Forum

世界経済フォーラムは、経済、政治、学究、その他の社会におけるリーダーたちが連携することにより、世界、地域、産業の課題を形成し、世界情勢の改善に取り組むことを目的とした国際機関。1971年に経済学者クラウス・シュワブにより設立された。スイスのコロニーに本部を置き、同国の非営利財団の形態を有している。 ウィキペディア

 

本当の狙いは中堅企業を増やすこと

 では、最低賃金をヨーロッパ並みに引き上げるとどうなるのでしょう…?恐らく最低賃金で働いている人たちだけでなく、その上の層、そしてさらにその上の層にも賃上げ効果が及ぶと推測されます。たとえば、最低賃金より少し多くもらっていた人は、最低賃金の引き上げによって給料が最低賃金と変わらない水準になります。それは嫌だと思う人は、より賃金の高い職場を求めて転職しようとするでしょう。企業はそれを引き留めるために、その上の層の賃金を上げざるをえなくなるのです。このような玉つきで、全体の賃金が上がるという仕組みです。

更に言えば、最低賃金で働く人たちは消費性向が高いというデータがあるそうです。高賃金の人の給料を上げても貯蓄や資産運用に回るだけですが、低賃金の人の給料を増やせばモノやサービスがよく売れて、経済への直接的なプラス効果が期待できるのです。そして、最低賃金の引き上げには、忘れてはならない効果がもう1つあるといいます。それは生産性の向上です。日本の生産性の低さは目を覆いたくなるレベルです。総合の生産量であるGDPは世界第3位であるにもかかわらず、多くの先進国と比較した際に日本の労働生産性は低いと言えます。日本は人口減少が進むため、生産性を引き上げないとGDPを維持できません。GDPが減れば社会保障費を捻出できず、国は崩壊するしかないのです。それを防ぐには、労働生産性を高めて一人一人の所得を増やす必要があります。そのための有効な手段が最低賃金の引き上げだと専門家は指摘しているのです。

 

最後に

 最低賃金が高いから生産性が高いのか、あるいはその逆なのかという因果関係は、正直僕にはわかりません。ただ、相関関係が強いのは間違いないので、多くの国はまず最低賃金を上げることで生産性を高めようとしているようです。現実に成果も確認されつつあるようですよ。とにかく決定的な結論が出てからでは手遅れなのです。

日本の生産性が低いのは、日本の企業数のうち中小企業が占める割合が高いことが推測されます。そもそも企業規模が小さいと、生産性を高めるためにICTを導入することも女性が産休・男女問わず育休を取りながら働き続けることもできません。要するに器を大きくしないことには、生産性向上は遠い夢の話なのです。

ICT「Information and Communication Technology(情報通信技術)」の略で、通信技術を活用したコミュニケーションを指します。 情報処理だけではなく、インターネットのような通信技術を利用した産業やサービスなどの総称です。

 

もちろん最低賃金を引き上げても、会社を成長させられず、単に利益を減らすだけの企業が出てくるかもしれません。しかし、シビアに考えるとそれで経営難に陥るような会社は無理して続ける必要はないのかもしれません。そもそも中小企業の数が多すぎることが日本経済をひっ迫させている一つの現況なら何か画期的な方法で産業革命を起こさないとダメかも…。

 

 

人生のぬるま湯にあなたは何回入りましたか?

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 いよいよ秋も深まり限りなく冬に近づいてまいりました。そのせいか天気の好い日の空は宇宙との境目がわからないほどの透明感と清々しさでいっぱいです。ただその反面心と懐との肌寒さをいっそう感じる今日この頃でもあります。さて、そんなネガティブな気持ちはおいといて今回ですが、これからの人生においてできるだけ後悔しない心構えをテーマに考えてみたいと思います。

 

不安から確信に変わる後悔

 さて、誰もが経験するであろう若い頃…。そんな時代の絶え間ない努力、スポーツなどで培った体力や柔軟な動きそして学習から学んだ考え方に至る様々な経験を多かれ少なかれ過ごしてきた思います。しかしそんな貴重な経験も残念ながら今日まで活かせず、考え方も体も硬くなり若かりし頃の積極性まで失われ現在を悔やむ人は少なからずとも存在していると思います。それはきっと人生の「ぬるま湯」につい足を入れてしまったからなのです。僕自身も実のところ幾度となく入った感があります…。そこで、今からでも踏みとどまるために、自分が今まで取り組んできたメインの仕事の両サイドにある業際的(ぎょうさいてき)な業務を、準専門レベルまで引き上げる勉強や経験を積んでおくことが人生巻き返しの一つの方法だと僕は思います。しかしながら、もしそのことに役職定年後気づいたとしたら、それはもう時すでに遅しということになってしまうでしょう。そこで、そうならないようにあえてヤバそうな事柄いわゆる「ぬるま湯」をいくつか紹介しますので是非参考にしてください。

 

自分の可能性を過小評価してしまう

 個人差はもちろんありますが人は、ある程度の年齢に達すると「自分はどうやらこの辺りまでだな…。」と、限界を勝手に決めてしまい結果、後悔してしまうケースがあります。たとえば、仕事をしている時など組織の中で思うように出世できなかった人は、残念なことに「無力感」という覚えなくていいものだけを学習してしまったりするものです。そのため「これまでだって大して報われなかったんだから、今からも必死に頑張ったところで、自分には大したことできないだろう…。」と、自らを過小評価してしまう傾向にベクトルが働くのです。

しかし世の中は、ただ仕事ができれば出世できるというわけではありません。昔から「一人に認められたら7人の敵ができる。」と言うくらい誰しもがそれなりの苦労をするものです。要するに、昇進するかどうかの決め手は、実力やスキルも確かにあるでしょう。しかし何よりもその時の運が明暗を分けるケースがあるということです。上司の好みや、たまたま所属していた事業部が主流か傍流(ぼうりゅう)か、だったりするのです。なので自分を否定する前になぜそうなったかを少し考えてみてはどうでしょう…。もし自分がそんな負のスパイラルに陥っていると感じるならば、きっとどこかに脱出の切り口が見つかるはずです。

 

会社が見る自分の評価を考える

 たとえば、長年今の会社で働いてきて惰性(だせい)を感じ、いつのまにか「自分の限界はこの辺りだな…。」と線を引いて、さらなる成長やアップデートの追求、人脈づくりをなんとなく止めてしまったという人は、確実にそのことが人生において大きな後悔を生むので十分に注意しよう。自社への帰属意識というのは厄介なもので、50代以降は、自分の市場価値を知る上での障害になりかねません。「自分の価値は、本当にこの年収分なのか?」と、疑わなくなってしまうのです。

市場価値以上の年収をもらっている人もいれば、逆に過小評価されてずいぶん低い年収に甘んじている人も少なくないでしょう。同じ50代でも、年収450万円の人よりはるかに生産性の低い人が年収900万円以上もらっている、なんて話もザラにあるようです。

 

やりたい事とやりたくない事のバランス

 長年会社の中にいると「何がやりたくて、この会社に入ったか」ということすら、思い出せなくなる人も多いと思います。上司に指示されるまま仕事をして10年、20年たつと、「やりたいことが何かなんて、考えても仕方ない。どうせ上の指示通りにやらないといけないんだから…。」と思うようになってしまうのです。当然、「やりたいこと」の方がモチベーションも高まるし力も発揮できるのですが、「そんなこと考えてもムダ。がっかりするだけで、むしろ精神衛生上よくない」と割り切って、月並みな手腕で仕事をこなすようになり、成長が止まってしまうのでしょう。そしてある瞬間突然こう思うのです。「あの時、あきらめずにもっと『やりたいこと』にチャレンジすればよかった…。」と、後悔するのです。

 

低い条件の雇用に甘んじた後悔

 定年間近になり、「再就職・転職や起業は面倒だし、社会保険もあるし」という安易な気持ちから、社畜的雇用に甘んじてしまい、「別の選択をすればよかった」と、後々の後悔している人も少なくないでしょう。このようなタイプの人には、長い雇用の期間に転職などのアクションや情報収集すら行わなかったことを後悔している人もいれば、アクションを起こしたり、これまでの人間関係からオファーをもらったものの、踏ん切りがつかなかったことを後悔している人もいるのではないでしょうか。世の中というものは極寒の地にある露天風呂の様なものです。「ぬるま湯は、ぬるくていやだけれど熱くはない代わり寒くもない。」湯船を出て少し歩けば、熱いお風呂があったり屋内へ回避できるのに何故かそういう人たちはぬるま湯に文句を言い不平不満を感じながらそこに居たがるのです。極寒の外に湯船からすっぽんぽんで出て移動するのができないのです。そしてその理由がなんと「寒いのはイヤ」というから驚きます…。

 

充電という名の恐怖の思考停止

 ここでいう思考停止病とは、何かを考えるとき脊髄反射的(せきずいはんしゃてき)もしくは刺激反応型(しげきはんのうがた)を指します。たとえば、会社はこう考えてるだろうから、自分としてはこう思うとか、部長はこう思うだろうから、自分は…。と、なってしまうことです。答える相手がどう思うか、誰がどう判断するかなどと斟酌(しんしゃく)しながら考える日々が何十年も続いてしまうと、そこから解き放たれた自由な発想ができなくなるのです。

聞くところによると日本はとくにこの傾向が強いそうです。なので自由を知らずに働き続けた人達は、定年まじかになると確実に戸惑ってしまうわけです。たとえば、50代を卒業したら、何をしたいですか?という質問に、どれだけの人が個人としての意見を答えられるかです。僕が思うにそんな時は、きっと皆さんこう言うと思います。「少し充電してから考えます…。」みたいに。まさにこれが思考停止というひとつの症状なのです。

 

気が付けば働かない人間になっていた

 今の時代は新入社員から定年寸前のベテラン社員までガッツリ働かなければなりません。いわゆる成果主義時代です。若手からみる定年まじかの管理職いわゆるシニア社員などは「ITリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する能力など)が低く、新しい技術についていけないシニア社員のおかげで、自分たちの負担が増えている…。」という不満が募っているそうです。更にそういう生産性の低いシニアの年収が、自分たちよりずっと高いのはなおのこと許せないのです。実際シニア社員達の中には、「自分は十分働いている」と自身に言い聞かせる反面、心のどこかでは、「そう思われても仕方ないな~。」という後悔をしている人もあんがい多いかもしれませんね…。確かに一昔前までは、それが当たり前だったのかもしれませんが、恐らくこれからはそんな時代は二度と再びこないでしょう。

 

自分というアイデンティティを確立できているか

「○○銀行の松村堂です。」とか「○○商事で部長をしております松村堂です。」といった名刺や組織というバックボーンがなくなると、はたしてどれだけ自分にブランド価値があると思えるでしょう…?定年後に名刺を作り、裏に出身企業名や「元部長」などの肩書、はたまたご丁寧に出身大学・学部まで入れているシニアもいるようですが、これはもう明らかにアイデンティティの喪失を恐れたパターンと言えるでしょう。重要なのは会社の名刺がなくなっても消えない自分のアイデンティティを確立できなかったという後悔にも見えなくはないですね。勿論、独立・創業して新しい仕事を始める際に、名刺の裏に出身企業や出身校を入れるのは戦略的ですから、それはそれで一つの方法だと思います。

 

モチベーションが湧かなくなった

 定年が射程圏内に入りだすとモチベーションが維持できなくなる人が多いそうです。まず考えられることは年収の激減です。それに集中力が続かなくなり、体力の衰えを実感しだし社内でのジェネレーションギャップに疎外感を感じだすなど、今まで感じたことがなかったネガティブな感情が芽生えだし、結果モチベーションが下がるのではないかと考えられます。

 

最後に

 会社での定年に気をとられ、人生に定年がないことをすっかり忘れていた人は残りの人生に大きな不安を持つのではないでしょうか…。要するに再雇用も含め仮に65歳まで働いたとしても今の日本であれば残り20年くらい人生は続きます。その残りの人生の過ごし方に何も考えず、無為に過ごしてしまう事だけは避けなくてはいけません。元気に残りの人生を全うしようと考えるならば、お金の問題や人間関係、それに最も大切な生きる意欲です。現役当時は日々仕事に忙殺されて、それどころではなかった人も多いでしょうし、なんとなく漫然(まんぜん)と過ごしているうちにいつの間にか定年に…。という人もいるでしょう。あと、チョッと厄介なのが「定年になったら、まずはゆっくり充電しながら、その先のことを考えよう…。」と、考えている人達です。

しかしその充電期間が終わった後にどれだけ残りの人生を充実させるプランが、思いつくでしょうか?いいいよ役職定年や雇用延長が射程に入ってきた世代は、この辺りを呑気に考えず一日も早く真剣に定年後の人生設計を完成させる努力をしましょう。

 

 

 

意外と少ない?100歳まで生きたい人

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 ようやくわが町京都も雨が上がりました。台風一過のようにスカッとはいきませんが、それでもどうにかこうにか晴れまが見えてきました。気温も昨日までと打って違いとても暖かく過ごし易い秋の空気です。「できることならこのまま春が来ないかな~…。」と思う今日この頃です。さて今回は、長寿について少し考えてみたいと思います。もうずっと以前から僕自身は思っているのですが、「100歳まで生きたい!」という願望を常々持っています。もちろん健康体を条件にですけどね…。根拠としては、やはり世の中の進歩をライブで見続けたいというのがあります。

僕は、幼少のころからSF漫画、SF映画、SFアニメ、SF小説、などが大好きでとにかく一つでも多く現実のものになったら体験したいのです。なのでもし近未来にタイヤの無い車が道路を走りだしたら絶対乗ってみたいし、AI(人工知能)ロボットと友達にもなりたいのです。それに5G更には6G、7G…と通信システムの進化も凄まじいものがあり何かにつけてわくわくで期待大です。とくにかくこれからも進化していくであろう生活環境をバンバン体験したいのです。しかしそんな僕の思いと真逆の考えを持つ人達が、僕の調べた限りになりますが、思った以上に沢山いることを知りビックリしました。「みんながみんな100歳まで生きたくないのか~」としみじみ感じました。

 

100歳まで生きたくない理由って?

 今や「人生100年時代」という言葉が当たり前のように定着しつつあります。それを受けて「人生100年時代」をどのようにとらえているかについて各大手企業や団体が様々な調査やアンケートをしているようです。その中の某生命保険が2018年に「人生100年時代に関する意識調査」をした結果を参考に、長寿に関するみなさんの意識を探ってみたいと思います…。

 

100歳に興味あり派

 まず「人生100年時代において、あなたは100歳まで生きたいと思いますか?」という問いに、調査対象者20代~60代の男女1000名で調査をしたそうです。そして次のような回答が得られました。まず、あなたは100歳まで生きたいですか?の問いに、そう思うが(14.8%)そしてとてもそう思うが(6.4%)と答えは、その二つを合わせても、なんと僅か21.2%だったそうです。要するに100歳まで生きたいのは、たったの2割程ということなのです。

 

100歳に興味なし派

 一方で、あまりそう思わないが(41.9%)とまったくそう思わないが(36.9%)と、これも二つ合わせて、78.8%が「100歳まで生きたいと思わない」と答えたそうです。僕がもしこの質問を受けたら、「超思います。」と答えますから、この結果にはまったくもって理解できないですね…。

 

長生きしたくない本当の理由

 ま~納得いかないのは僕の勝手なので横に置いといて、アンケート結果から皆さんの声をいくつかピックアップしてみました。

  • 健康で自分の事は自分で出来るのであれば長生きしたい(20代女性)
  • 長生きしても生活に余裕がないのではないかと思うから(30代男性)
  • お金がない状態と医療費の増える時期と重なりそう(40代男性)
  • 無理して長生きするより、短くても楽しく充実した生活をしたい(50代男性)
  • 心身共に健康でいる自信が無い(60代男性)

う~ん…、どの意見にも確かに一理ありますね。どれをとってもリアルで生々しいですね。いずれにしてもこれから先、約50年近く心身の健康を維持するのは、お世辞でも簡単とは言えませんからね。以前にも書きましたが、人間の保証期間いわゆる自然治癒力は、30代を境に衰えていくとされています。なので著しい医療の発展がない限り100歳まで生きようとすれば、自己管理の徹底が年齢と共に求められるわけです。

 

生きぬく意欲とその為の備え

 調査に参加したみなさんは、「長生きすることは、リスクになると思いますか?」の質問に、78.6%が「そう思う」と答えたそうです。それでは一体どんなことをリスクと考えているのか見てみましょう…。

  1. 身体能力の低下 71.3%
  2. 収入の減少(資金不足)70.9%
  3. 年金制度の破たん 62.4%

この3つがどうやら長生きの3大リスクだったようです。因みにこの調査では、「生きていく意欲」と「備えること」には、興味深い相関関係がみられたとしています。人生100年時代に起こりうるリスクに「備えられている」と答えた人のうち42.7%が「100歳まで生きたい」と答え、「備えられていない」と答えた人のうち83.1%が「100歳まで生きたくない」と答えています。「なるほど…そういう事か!」要するに備えができていれば長生きする意欲が向上するということだったんですね。納得!

 

最後に

 とにかく、好むと好まざるとに関わらず、100歳以上、生きてしまうかもしれない時代に生きている僕たちは、できる限りの備えをすることが必要ということがこの調査で分かったような気がします。具体的には、お金の準備、生涯現役で働けるキャリア・スキル磨き、心身の健康のキープ、高齢期の孤立を防ぐ絆作りなどが「備える」に当たる部分でしょう。なのでそれがないと人は、心の中で複雑に不安を増幅し結果「いろんな意味で苦しいなら長生きしたくない…。」となるわけです。ただ、僕の場合どれも備わっていないような気がしますが、何故か長生きしたいという意識が強いんです…。僕に限ってかもしれませんが、絶望を圧倒する希望さえ持てば、全てとはいいませんが幾つかは乗り越えられるような気がします。あなたはどうですか?

 

 

 

達成できない人に共通する癖?

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 それにしても今年は何かやたら雨量が多いような気がします。それに台風14号の影響で僕の住む京都も昨日からず~っと雨です。そして今もまだ雨です。台風も確かに秋の風物ですが、同じ秋なら秋晴れのほうが僕的には断然いいですけどね…。さていきなりではありますが今回は、人の癖について考えてみることにしました。それこそ人の癖というのは、様々な形で表現されます。そんな癖ですが今回は、内面的でネガティブな部分である「できない癖」について考えてみることにします。そこで、どうせ例えにするなら僕たちが生活する中で密接に関わってくる「お金」をテーマにしようと考えてみました。

 

まずはお金が貯まる人の共通点

 当たり前の話ですが、世の中にはなぜかお金持ちになる人と、その逆にどうしても貧乏になってしまう人が存在するようです。もちろんどっちでもない人もいるでしょう。ではその違いはいったい何んでしょうか…?恐らく世界中の心理学者たちがこの難題にずっと昔から取り組んできたに違いないと思います。僕の浅~い調べによると、そもそもお金持ちになる人というのは、いくつかの共通点があるようです。

たとえば、「お金持ちになる人はそもそも自制心が強い」というのがあります。米国の某有名大学の研究によると、「将来のために今を我慢できる人ほど、人生で成功する可能性が高い」ということが確認されたそうです。また、お金持ちになる人は息抜きが上手とも考えられているそうです。というのも、ストレスが溜まると自制心が崩壊し、無駄遣いが増えてしまうからだそうです。う~んなるほど~納得…。

 

お金が貯まらない人の致命的「癖」

 さて、ここからが本題です。そもそもお金が貯まらない人というのはどうやら共通する致命的な癖というのがあるそうです。それは、ズバリ「自己連続性が低い…。」という事が大きくかかわっているようです。因みにメンタリストのDaigo氏も自己連続性について興味深く詳しく説明されていましたね。

 

自己連続性とは

 それではまず「自己連続性」を掻い摘んで説明しましょう。「自己連続性」とは今の自分が将来にわたって連続している…?と捉える度合いのことを指します。自己連続性が高いと、「今の自分は、将来の自分と似ている」と考えがちなのに対し、逆に自己連続性が低いと、「今の自分は、将来の自分とは別人だ」と考えてしまうのです。これでいくと、自己連続性が低く「今の自分は、将来の自分とは別人だ!」と考えている人ほど、お金が貯められない要するに貯金できない傾向にあるということになります。

 

違う角度から見る自己連続性

 自己連続性という概念の話をお金だけで説明すると、イメージしにくいかもしれませんね。それでは、「明日から頑張る」という口癖を例にとって説明しましょう。「明日から頑張る」は、自己連続性の低い人が好きそうな言葉かもしれません。なぜなら「明日から頑張る」という口癖には、2つの意味が含まれているからです。まず1つは、「今日の自分は頑張っていない」という意味があります。そしてもう1つは、「明日になれば自分は頑張れる」という意味です。しかしこの2つの言葉よくよく考えてみると、言っていることが無茶苦茶だと思いませんか?どうして、今でさえ頑張れない人が、明日から頑張れるのでしょうか? と疑問に思いつつも自分自身、耳が痛い話です。

 

明日からではなく今から

 とにかく「明日から頑張る」を改めさえすれば、恐らくお金が貯まる人になれる…?かもしれません。おさらいですがお金が貯まる人は、自己連続性が高いということです。要するに自己連続性が高いとは、「今の自分は、将来の自分と似ている」と考えることを指します。自己連続性の高い人は「明日から頑張る」とは考えないのです。逆に、「今頑張れないなら、明日も頑張れない」と考えるのです。そして、何より「明日から」ではなく「今から」頑張ろうとするのです。

 

最後に

 と言う訳で、結論としてお金が貯まらない人は未来の自分を今の自分と別物に考えがちで、おまけに今の自分を棚に上げがちなのです。それに対して、お金が貯まる人は未来の自分は今の自分と似ていると考え、未来を現実的に見積もり、今から直ぐに努力できる考えを持っているのです。とにかく、明日から頑張る…。が口癖の人は、今日から心を入れ替え何が何でも「今日から頑張る!」そして「明日から頑張る!」と言う口癖に封印をして日々活動していくように心がけてみてはどうでしょうか。

 

 

 

 

嫌な仕事はサラッと断る

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 9月も終わりに近づくと、さすがに朝夕は涼しくなるもんですね。鈴虫かコオロギかよくわかりませんが、ここ最近は朝となく夜となくとにかく大合唱をしています。そんなわけで今年も気が付くともう残り約3ヶ月で終わりです。ついこの間の台風12号もそうでしたが、特に10号による被害は凄かったですね…。なんか今年は自然災害と世界中を席捲しているコロナ禍にまみれた年になってしまったような気がします。また世間ではこの様な(コロナ禍)社会状況での生き抜く姿を「ニューノーマル」と言う人もいますが、ホント受け入れがたいですよね…。とにかく日常での終日マスク着用は苦し過ぎます…。何れにせよ仕事もそうですが、これからは今までと違う対人スキルを身に着けていかないと今後の社会では生き残れないかもしれませんね。そこで今回は、そんな新しい職場環境でもやはり、今まで同様にやりたくない仕事というのが存在し続けるはずです。そしてそれらの仕事を「ニューノーマル」スタイルの中、いかにスムーズに断れるか?について少し考えてみたいと思います。
 

嫌な仕事を上手に断るコツ

 昔から対人スキルの高い人ほど、断り方がうまい気がします。要するにそういう人は仕事を選ぶ力をしっかりと身に着けているという事でしょう。そこでどんなことに注意すれば嫌な仕事を回避できるかを色々と調べてみました。
 

つい不本意に引き受けてしまう

 こんなことはありませんか?油断もそうですが周りからの期待やプレッシャーに負けて、つい不本意な「YES」を言ってしまう…。と言うヤツです。そこでですが世の中にはこんな考え方がある事をご存じでしょうか?少ない時間とエネルギーで最大の成果を出すための考え方「エッセンシャル思考」というものです。因みにそうでない思考である非エッセンシャル思考の人は、周囲の期待やプレッシャーに負けて、不本意な「YES」を言ってしまう。よく考えもせず、相手を喜ばせるためだけに仕事を引き受ける。改めて考えると最悪の請負です…。
 

そもそも非エッセンシャル思考の人は思うに、自己満足というかそのほうが気分がいいからかもしれませんね…。逆に、エッセンシャル思考の人は、そうした気分のよさが長続きしないことを直感的に感じているといいます。即ち一瞬の満足のあとでやってくるのは、確実に深い後悔と確信しているのです。「なぜこんなことをやらねばならないのか」と、相手を恨み、自分を責める。そしてもっと重要な仕事が犠牲になったことに気づき、ショックを受け自己嫌悪に陥るなどなど、こうなるともうやってられません。勿論あらゆる依頼を断れと言っているわけではないと思いますが、本当に重要なことをやるために、本質的でない依頼を断るのは自分にとって正しい判断なのです。肝心なのは、絶対にやるべきこと以外のすべてに対して、上手に「NO」と言うことなのです。

 

ここで「YES」と言ったら自分は何を失うか?を考える

 誰かに何かを頼まれたとき、人はそれを直感的に関係性の問題だと思ってしまうそうです。頼みを断ることが、相手を拒絶することだと感じてしまうのです。重要なのはこの2つをしっかり分けて考えなくてはならないということです。頼まれごとを関係性から切り離して考えたとき、判断はより明確になり、それを伝える勇気と思いやりも生まれてきます。要するに判断を関係性から切り離すことなのです。

また断るにも直接的でない表現を使うことがコツです。「NO」という言葉を使わなくても、「NO」を言うことは可能なのです。時には直接的な表現を避けて、やんわりと断ることも必要です。たとえば、「声をかけてくれて嬉しいのですが、あいにく手がいっぱいで…。」「行きたいのは山々ですけど、時間があるかどうか…。」断る前置きに好意のある言葉を付けて断るようにしましょう。

またここで「YES」と言ったら、自分は一体何を失うのだろうか…。そのトレードオフに目を向ければ、中途半端な「YES」は言えなくなるはずです。要するにどんな判断をするときも、機会コストを忘れてはいけないのです。もしもこれを選んだら、別のもっと価値あることができなくなるということです。全部やってみよう、という非エッセンシャル思考のトラップに掛かってはいけないのです。そもそもすべてをやることはどだい無理であり、不可能なのです。それよりなにより失うものを冷静に計算し、納得できる答えを出しましょう。人はみな、何かを誰かに売り込もうとしているものです。人間不信になれとは言いませんが、相手が何を売り込もうとしているのか、自分はそれによって何を失うのか。それを意識して、より合理的な判断を心掛けましょう。

 

断ることは即ち自分の時間を安売りしないこと

 「NO」を言うことで、短期的に相手と気まずくなる場合があります。相手は「これをしてほしい」と思っているのだから、やはり断られたらガッカリするでしょう。しかし、長期的に見ればポジティブな面もあります。短期的な気まずさと引き換えに、相手の敬意を手に入れられるからです。うまく依頼を断ることは、「自分の時間を安売りしない」というメッセージになるからです。なのでエッセンシャル思考の人は、みんなにいい顔をしようとしないのです。時には相手の機嫌を損ねても、きちんと上手に「NO」を言うのです。長期的に見れば、好印象よりも敬意のほうが大切だということですね。

 

生返事はただの迷惑

 何かを依頼したことのある人ならわかると思いますが、あいまいなまま引き延ばされるよりも、はっきり断られるほうがずっといいのです。できないとわかっているのに「うまくいくように動いてみます…。」とか、「たぶん大丈夫だと思います…。」などと言っておいて、結局できないというほうが最悪ですからね…。あいまいにしておいて結局断るくらいなら、その場ですぐにピシャリと断るほうがいいのです。その方が相手へのダメージもずっと少なくてすむのです。因みにこの手の返事は、仕事のせいにするわけではありませんが、僕自身、ま~ま~使い気味かもしれません。なので僕自身も気を付けようと思います。

 

断り方のバリエーションを身に付ける

 エッセンシャル思考の生き方は、「NO」を言いつづける連続です。だから、上手な断り方を何種類も身につけておいたほうがいいのです。

■とりあえず黙る

気まずい沈黙を怖がらず、沈黙を味方につけるのです。誰かに何かを頼まれたら、少しだけ黙ってみるのです。それから自分の意見を言うようにしましょう。最後には、相手が気まずくなって何か言うまでじっと待ってみるようにしましょう。

■代替案を出す

代替案を出して、相手に歩み寄りながら断る作戦です。たとえば、メールなどで食事に誘われたとしましょう。その場合、「今は仕事が立て込んでいて直ぐは厳しいですが、目途がつきましたら是非ご一緒させてください。○○月始め頃ではどうでしょう?」それにメールは、「NO」を言う練習にちょうどいいですからね。なぜなら文章を何度でも練り直しできますし、なによろ直接顔を見なくてすみますからね。

■予定を確認して折り返します

何でも引き受けてしまう人は、周囲の人もそれを知っているので、何かあると直ぐに頼ろうとされます。「この仕事が大変なので、手を貸してくれませんか?」と言われると、つい「YES」と言ってしまうのです。そうなると仕事を抱えすぎて、ストレスばかりが増えてくる悪循環発生します。そんなときの必殺技は、「予定を確認して折り返します」という言葉です。要するにいったん時間をおいて考えると、断ることが容易になるのです。その場でつい引き受けてしまうことがなくなり、自分のペースで仕事ができるようになった。

 

上司からの依頼対策

■仕事の優先順位

上司からの依頼は断りづらいものです。もし機嫌を損ねたら、どうなるかわかりませんしね。それでも、無理な状況で仕事を引き受けてしまうと、結果はよけいに悪いことになるものです。目の前の依頼を断らなければ、もっと重要な仕事が駄目になるかもしれないのです。単に「NO」と言うのが難しければ、上司にトレードオフを意識させてみましょう。たとえば、「はい、ではこの仕事を優先でやります。今抱えている仕事のうち、どれを後まわしにしましょうか?」とか、あとこんなのもあります。「今かなり仕事を抱えているので、これを無理やり差し込むと品質が落ちてしまいます…。」要するに筋の通った断り方をすれば、その仕事は別の何でも引き受ける部下にまわる。ただそれだけのことなのです。

■肯定を使って否定する

喜んで引き受けるふりをして、実は断るという高度なテクニックがあります。たとえば、自分の車を使うとします。「どうぞ僕の車を使ってください。キーを置いておきますね。」この言葉の意味は、親切な言葉を使いながら、運転は引き受けないという意志をきっぱりと表現しているのです。いくらかは力になりたいが、全面的に巻き込まれたくない場合にきわめて有効な方法です。

 

最後に

 「NO」を言うことは優秀な人の必須スキルと言ってよいでしょう。たとえば、別の人を紹介する場合、「僕は無理ですけど、彼なら興味を示すんじゃないかな…。」と言って、別の人にまわしてしまう。自分を見込んで特別に頼んでくれたと思いたいところですが、実際は誰がやってもいい場合のケースがほとんどだと思います。どうでもいい人やイベントを切り捨てて、本当に意味のあることにだけ100%の力を注ぐのです。どんなスキルでもそうですが、はじめは誰しもうまくいかないものです。それでも練習するうちに、人は技術が身についていきます。試行錯誤を重ね、腕を磨いていけば、そのうちに断り方のバリエーションも増えて、そつなく断れるようになるはずです。と言う訳で長くなりましたが、これからはどんな相手からのどんな依頼も、上手に断るマイスターになるように頑張りましょう。もちろん僕もガンバリます。

 

 

 

人の悪口を言う事からの卒業

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 最近、人の生死にまで影響を及ぼすネット界での悪口や誹謗中傷が目立っています。それは見ていて決して楽しいものではありません。にもかかわらず、人はなぜ悪口をやめられないのでしょうか? もちろんすべての人がという意味ではありません。それでも確実に誹謗中傷が好きな人は存在します。それではなぜ人は、悪口、誹謗中傷が好きなのでしょうか? 自分がされれたことを想定せず、中には全く悪気なく行ったり、なんなら正義の鉄槌とばかりに行う人もいるかもしれません。それはどれもすべてが、相手に対し精神的なダメージを与える行為なのに、どうしてやめられないのでしょうか?というわけで今回はそんな悪口を言う心理について調べてみました。

 

人を悪く言ってしまう心理とは

 アメリカの有名な心理学者の言葉に、「人間はついつい他人と自分を比較してしまう生き物です…。」というのがあるそうです。とくに日本人の場合は、集団での和を乱さないよう他人の顔色をうかがったり、他人の行動や言葉に目を光らせたり、自分と比べるなどの傾向がとても強い民族だと考えられているそうです…。コロナウイルスの流行に伴ってどこからともなくあらわれた「自粛警察」と呼ばれる人たちも、自分達は自粛のルールを守っているのに、それを守ろうとしない奴がいるという怒りが行動の元になっているようです。要するに、他人と比較してしまう心理が原因になっているのです。人間は、他人と自分を比べたときに自分が優れていると「優越感」を抱きます。その逆に、自分が劣っていると感じたときに「劣等感」を抱きます。劣等感は強烈なネガティブ感情なので、それを何とか払拭したいという衝動にかられる。それを、悪口や誹謗中傷という形で発露したくなるのです。まさに歪んだ防衛本能なのです。

 

悪口は嫌な自分んを曝け出す

 悪気があろうがなかろうが、とにかく悪口や誹謗中傷を言うことで、相手を簡単におとしめることができます。自分対相手との比較において、相手を引きずり下ろすことによって、自分の価値を相対的に高めることができるのです。それによって、内なる劣等感を緩和しようという心理が働いてしまうのです。ところで「自己肯定感」という言葉をご存じでしょうか?「自己肯定感」という言葉は1994年に高垣忠一郎 教授(日本の臨床心理学者)によって提唱された言葉です。そしてその自己肯定感ですが、低ければ低い人ほど自分に自信が持てないことを表しています。そういう人は、自分対相手との比較において、自分が劣っていると感じやすい傾向があります。なので、実は自己肯定感の低い人ほど悪口を言う傾向にあるのです。逆に自己肯定感が高い人は、自分の考えや行動に自信を持てます。他人にとやかく言われても、その考えや行動はゆらぎません。相手と自分をいちいち比較することもなければ、悪口を言うこともないのです。従って、もし自分の周りに悪口好きな人がいたとしても、それは自己肯定感が低いとっても残念な人なんだな~…。と冷静に聞き流すことができるはずです。

 

悪口はひとつの病気である

 今回のテーマでもある、悪口が好きな人はなぜそれをやめられないか?ですが、 それは悪口はひとつの病気?と考えられるということです。少し専門的な話になりますが、たとえば、誰かの悪口を言うとします。するとやる気や快楽に関与するホルモンいわゆる中枢神経内でドーパミンが放出されます。ドーパミンが出ると人は楽しい気分になるとされています。だから、悪口を言うことは基本的に楽しいことなのです。しかし、ドーパミンはよくばりな脳内物質でもあり、一度放出されるとより大きな刺激を求めるようになります。つまり、悪口の回数を増やしたり、より過激な悪口を言わないと、新たにドーパミンが出ず、楽しい気分になれなくなってしまうのです。

結果、悪口を言うことが癖になって、なかなかそれを改善しづらい状態に陥るようです。なので人は悪口を言えば言うほど深みにはまってしまうというわけです。これはアルコール依存症や、薬物依存症とある意味同じ原理です。なので悪口を言う人即ち依存症という病と解釈できるのです。多くの人は、悪口は「ストレス発散になる」と思っているでしょう。恥ずかしながら僕もそう思っていました。しかし、実際は逆なのです。悪口はストレスを増やします。最悪の場合、脳を傷つけ、寿命を縮める危険性もあるのです。

 

悪口は百害あって一利なし

 海外の専門機関での研究によると、世間や他人に対する皮肉・批判度の高い人は認知症のリスクが3倍、死亡率が1.4倍も高い結果となったそうです。批判的な傾向が高ければ高いほど、死亡率は高まる傾向にあったそうです。また、悪口を言うと、ストレスホルモンであるコルチゾールが分泌されるそうです。コルチゾールというのは、ストレスを感じたときに放出されるホルモンです。前述でドーパミンが放出されると言ったので快楽を得ていると書きましたが、悪口を言っているときは同時にストレスも感じているということなのです。これも調べるまで全く知りませんでした。

 

返報性の法則

 心理学の法則で「返報性の法則」というのがあるそうです。たとえば、人は誰かに親切にされたとき、「その親切をお返ししないといけない…。」という気持ちが湧き上がる心理のことだそうです。即ち「好意の返報性」を上手に使うと、人は自身の信頼度を高め、人間関係を深めることが可能になるのです。しかし、残念なことに世の中の多くの人は、「悪意の返報性」を使っているといいます。ネガティブな感情に対しては、人はネガティブな感情を返したくなるものです。「やられたらやり返す・・・倍返しだ!!」とやり返してしまうのが、正に悪意の返報性なのです。そして人に悪口を言うと、やはり悪意の返報性で悪いものが帰ってくるのです。本人がいないから悪口を言っても大丈夫と思っていても、人の目に映るあなたは「よく悪口を言う人」と周りにネガティブな印象を植え付けてしまいます。要するるに、いつ自分に矛先が向かうかわからないので、周りの人たちは必然的に悪口を言う人を心から信頼しなくなるのです。間違っても打ち解ける意味で言ったとか、親近感を持ってもらう意味で言ったは、まったくの見当違いなのです。

 

最後に

 それでは健康を害し、信頼を失う悪口をやめるには一体どうしたらいいでしょうか?そのいちばんの近道は「自分を褒める」ことだそうです。悪口を言う人は、自己肯定感が低い人。つまり、自己肯定感が高まれば、悪口は自然と減っていきます。気に入らない相手をおとしめるのではなく、自分を高めることによって、相手と自分のギャップを埋める作戦に出るのです。自分のささいな成功を独り言でもなんでも、褒めてみるのです。褒めるのが無理なら、ネガティブをポジティブに置き換えるだけでも十分効果はあると思います。誰かの成功をねたむのではなく自分もそうなろうと考えるのです。どんな形であれ自分の中でポジティブな言動を積み上げることで、自己肯定感が高まり、怒りや嫉妬、不充足感が満たされ、ネガティブな感情を抑えることができます。結果、気が付くと悪口や誹謗中傷から卒業できているわけです。「そんなうまくいくわけない…。」とネガティブになる前にまずは「ま~、ダメもとでやってみようか!」とポジティブに考える努力をしていきましょう。

 

 

幸せな人生から生まれる孤独

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 世の中の仕組みには必ず期間というものがあります。食品の賞味期限もあれば、永遠に生き続けられない寿命もそのひとつでしょう。特に生きていくための生命線である仕事にも当然人生同様に寿命というか期限があります。それは個人によってそれぞれ異なる時間差で訪れます。やり切った達成感と同時に燃え尽きる人もいれば、志半ばという人もいるでしょう。やっかいなのがやり切った後に時間を持て余すことです。今は健康寿命もどんどん延びています。就労年齢も60歳、65歳、今や70歳なんてのも現実に始まりつつあります。人とかかわっているうちは、煩わしい時もありますが、それなりに生活感というか、生きている実感を感じられるはずです。でも、歳を重ね周りの親類や、友人などが様々な理由で自分の周りから徐々にいなくなります。人は長く生きれば、それだけ孤独と向き合う時間が長くなるのです。こればっかりは、好き嫌い言ってられません。そこで今回は、そんな孤独との付き合い方について考えてみたいと思います。

 

価値のある孤独を味わう

 人にはそれぞれ幸せを感じる瞬間というものがあります。沢山のお金を持つというのもそうでしょうし、好きな人と暮らすのも幸せですね。そんな幸せのひとつに「自由」があると思います。たとえば、どんなにお金があっても、毎日深夜遅くまで過労死寸前になりながら働いている状態は、多くの人にとって望ましい状態ではないと思います。それではいったい自由とは何でしょうか?それは、何からも誰からも制約を受けず、自分の意のままに生きることです。何かの制度や仕組み、あるいは誰か他人に縛られてがんじがらめになっている状態より、自分の好きなように生きるほうが楽しいに決まっているのです。自分らしく生きられるとしたら、それも社会でのひとつの成功と言えます。但し、そんな自由というカードの裏側には必ず孤独がつきまとうということもしっかり理解しておきましょう。

 

搾取される人生に未来無し

 たとえば、ひとりでいることは寂しいから無理やり誰かと一緒にいようとする。どこかのグループや集団に所属しようとする。日々の予定が真っ白だと不安になるので、自分を曲げて、あるいは自分の本心を抑え込んでまで周りに合わせることを日ごろから行っている人は、確実に自分の人生を他人に浸食されています。

それに、周囲の目を過剰に気にして生きる人は、見方を変えればそれは他人の価値観で生きているとも考えられます。要するに自律していないということなのです。ある意味、インスタ映え…。というのも、周囲からどう見られるかを気にしているひとつかもしれません。即ち自分の行動を、自分の価値観やマイルールにもとづいて制御できていない状態なのです。これは間違いなく自分自身が気付かない隠れたストレスであり見えない手枷足枷のなにものでもないのでは?と思います。

もちろん、人とつきあうことには良い影響を受けたり、多少は集団の影響を受けるものですが、それでも頭の中まで浸食されてしまっては、いつまで経っても自分に自信が持てず、生きている実感を得にくくなってしまいます。そうなると、必然的に自分の将来や少なからず理想を描いていた未来はちっとも楽しくそして明るいと思えなくなってしまいます。

 

幸せと成功を遠ざける思考

 しかし恐らく世の中の大部分の人生を他人に搾取されている人達は、孤独なのは寂しい…。ひとりぼっちはみじめ…。という価値観ではないでしょうか。たとえば、ランチメイト症候群(ランチメイトしょうこうぐんとは、精神科医の町沢静夫によって名付けられたコミュニケーションの葛藤で、学校や職場で一緒に食事をする相手即ちランチメイトがいないことに一種の恐怖を覚えるというもの。)や便所飯という言葉が話題になるほど、多くの人はひとりで食事するのを恐れているといいます。しかし、実際にはひとりで食事をしているところを見られることを恐れているのかもしれません。

それはなぜかというと、自分の中に孤独なのはみじめだ…。ひとりは寂しい…。という思い込みがあるため、「自分は友達のいない寂しい人間なんだと思われているんじゃないか」という妄想に襲われるからなのです。よくよく考えてみると孤独死というのも、生きている周りの人間が勝手に「かわいそう」「みじめ」などと言っているだけなのかもしれません。本人は満足して死んだのかもしれないのに、本人の心情を知ることができない外野があれこれ講釈するのは大きなお世話です。なので推測するに世間の多くの人はそれくらい孤独を恐怖と感じているということなのでしょう。

 

孤独を自由と考える思考

 そもそも「ひとりでは生きていけない」というのは大きな勘違いです。確かに赤ちゃんや子どもはひとりでは生きられませんが、大人になればどうでしょうか。仕事を持っていれば、家賃を払って住む場所を確保できる。食料品店に行けば食べものは手に入る。ケガをして働けなくなっても医療保険をはじめ各種保障保険に入っていれば困ることはないはずです。一般論として健康な体を持っていれば、ひとりで起きられるし、ひとりで着替えもできるはずです。ひとりでお風呂も入れるし食事もできるでしょう。

仕事はひとりではなくチームや組織、あるいは取引先があるわけですが、求められる成果を出せば問題ないはずで、職場に苦手な人がいるなら仕事に必要な会話だけを淡々とすればよいだけなのです。特に濃厚なつきあいが求められているわけでも無いはずです。自分からむやみに他人を攻撃さえしなければ人間関係が険悪になることもなく、単に誘われないとか、会話の輪に入れないだけ。仮にそうであっても、それが何かの障害になるわけでもありません。要するに実際にはひとりでも生きていけるわけで、孤独を恐れる必要はないということなのです。人は孤独を受け入れずして自由を得ることはできません。逆に孤独を避けようとすればするほど、つきあう人が増え、他人に合わせなければならず、自由もあきらめることになります。とはいえこれは、対人関係を避けて自ら孤立するような、自閉的な生き方を意味するわけでもないことをよく理解しましょ。

 

最後に

 人は自分らしく生きようとすれば、当然のことながら自分の考え方を尊重することになります。すると、自分の個性に合わない人たちは離れていく一方、そのぶん価値観が合う人や、自分の存在を認めてくれる人だけが必然的に残ります。そしてその人たちとは自然体で接することができますから、必要のない気づかいで疲弊したり、悩んだりすることから解放されます。その結果最終的に、自分を飾らず偽らずにつきあえる人間関係のみが残るので、人付き合いと自由を両立させることが無理なくできるのです。

「人は、最悪ひとりでも大丈夫。」と思える強さは、過剰に人間関係に気を使って疲弊したり思い詰めたりしなくて済むよう、人間関係を取捨選択(しゅしゃせんたく)できる勇気になるのです。このように、自分の価値判断基準を信頼し自分らしく生きることは、お金に換算できない成功のひとつの要素でもあり本当の意味での有益な人間関係を築きそのうえで初めて本当の幸せな人生が送れるのではないでしょうか。