松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

幸せな人生から生まれる孤独

 

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 世の中の仕組みには必ず期間というものがあります。食品の賞味期限もあれば、永遠に生き続けられない寿命もそのひとつでしょう。特に生きていくための生命線である仕事にも当然人生同様に寿命というか期限があります。それは個人によってそれぞれ異なる時間差で訪れます。やり切った達成感と同時に燃え尽きる人もいれば、志半ばという人もいるでしょう。やっかいなのがやり切った後に時間を持て余すことです。今は健康寿命もどんどん延びています。就労年齢も60歳、65歳、今や70歳なんてのも現実に始まりつつあります。人とかかわっているうちは、煩わしい時もありますが、それなりに生活感というか、生きている実感を感じられるはずです。でも、歳を重ね周りの親類や、友人などが様々な理由で自分の周りから徐々にいなくなります。人は長く生きれば、それだけ孤独と向き合う時間が長くなるのです。こればっかりは、好き嫌い言ってられません。そこで今回は、そんな孤独との付き合い方について考えてみたいと思います。

 

価値のある孤独を味わう

 人にはそれぞれ幸せを感じる瞬間というものがあります。沢山のお金を持つというのもそうでしょうし、好きな人と暮らすのも幸せですね。そんな幸せのひとつに「自由」があると思います。たとえば、どんなにお金があっても、毎日深夜遅くまで過労死寸前になりながら働いている状態は、多くの人にとって望ましい状態ではないと思います。それではいったい自由とは何でしょうか?それは、何からも誰からも制約を受けず、自分の意のままに生きることです。何かの制度や仕組み、あるいは誰か他人に縛られてがんじがらめになっている状態より、自分の好きなように生きるほうが楽しいに決まっているのです。自分らしく生きられるとしたら、それも社会でのひとつの成功と言えます。但し、そんな自由というカードの裏側には必ず孤独がつきまとうということもしっかり理解しておきましょう。

 

搾取される人生に未来無し

 たとえば、ひとりでいることは寂しいから無理やり誰かと一緒にいようとする。どこかのグループや集団に所属しようとする。日々の予定が真っ白だと不安になるので、自分を曲げて、あるいは自分の本心を抑え込んでまで周りに合わせることを日ごろから行っている人は、確実に自分の人生を他人に浸食されています。

それに、周囲の目を過剰に気にして生きる人は、見方を変えればそれは他人の価値観で生きているとも考えられます。要するに自律していないということなのです。ある意味、インスタ映え…。というのも、周囲からどう見られるかを気にしているひとつかもしれません。即ち自分の行動を、自分の価値観やマイルールにもとづいて制御できていない状態なのです。これは間違いなく自分自身が気付かない隠れたストレスであり見えない手枷足枷のなにものでもないのでは?と思います。

もちろん、人とつきあうことには良い影響を受けたり、多少は集団の影響を受けるものですが、それでも頭の中まで浸食されてしまっては、いつまで経っても自分に自信が持てず、生きている実感を得にくくなってしまいます。そうなると、必然的に自分の将来や少なからず理想を描いていた未来はちっとも楽しくそして明るいと思えなくなってしまいます。

 

幸せと成功を遠ざける思考

 しかし恐らく世の中の大部分の人生を他人に搾取されている人達は、孤独なのは寂しい…。ひとりぼっちはみじめ…。という価値観ではないでしょうか。たとえば、ランチメイト症候群(ランチメイトしょうこうぐんとは、精神科医の町沢静夫によって名付けられたコミュニケーションの葛藤で、学校や職場で一緒に食事をする相手即ちランチメイトがいないことに一種の恐怖を覚えるというもの。)や便所飯という言葉が話題になるほど、多くの人はひとりで食事するのを恐れているといいます。しかし、実際にはひとりで食事をしているところを見られることを恐れているのかもしれません。

それはなぜかというと、自分の中に孤独なのはみじめだ…。ひとりは寂しい…。という思い込みがあるため、「自分は友達のいない寂しい人間なんだと思われているんじゃないか」という妄想に襲われるからなのです。よくよく考えてみると孤独死というのも、生きている周りの人間が勝手に「かわいそう」「みじめ」などと言っているだけなのかもしれません。本人は満足して死んだのかもしれないのに、本人の心情を知ることができない外野があれこれ講釈するのは大きなお世話です。なので推測するに世間の多くの人はそれくらい孤独を恐怖と感じているということなのでしょう。

 

孤独を自由と考える思考

 そもそも「ひとりでは生きていけない」というのは大きな勘違いです。確かに赤ちゃんや子どもはひとりでは生きられませんが、大人になればどうでしょうか。仕事を持っていれば、家賃を払って住む場所を確保できる。食料品店に行けば食べものは手に入る。ケガをして働けなくなっても医療保険をはじめ各種保障保険に入っていれば困ることはないはずです。一般論として健康な体を持っていれば、ひとりで起きられるし、ひとりで着替えもできるはずです。ひとりでお風呂も入れるし食事もできるでしょう。

仕事はひとりではなくチームや組織、あるいは取引先があるわけですが、求められる成果を出せば問題ないはずで、職場に苦手な人がいるなら仕事に必要な会話だけを淡々とすればよいだけなのです。特に濃厚なつきあいが求められているわけでも無いはずです。自分からむやみに他人を攻撃さえしなければ人間関係が険悪になることもなく、単に誘われないとか、会話の輪に入れないだけ。仮にそうであっても、それが何かの障害になるわけでもありません。要するに実際にはひとりでも生きていけるわけで、孤独を恐れる必要はないということなのです。人は孤独を受け入れずして自由を得ることはできません。逆に孤独を避けようとすればするほど、つきあう人が増え、他人に合わせなければならず、自由もあきらめることになります。とはいえこれは、対人関係を避けて自ら孤立するような、自閉的な生き方を意味するわけでもないことをよく理解しましょ。

 

最後に

 人は自分らしく生きようとすれば、当然のことながら自分の考え方を尊重することになります。すると、自分の個性に合わない人たちは離れていく一方、そのぶん価値観が合う人や、自分の存在を認めてくれる人だけが必然的に残ります。そしてその人たちとは自然体で接することができますから、必要のない気づかいで疲弊したり、悩んだりすることから解放されます。その結果最終的に、自分を飾らず偽らずにつきあえる人間関係のみが残るので、人付き合いと自由を両立させることが無理なくできるのです。

「人は、最悪ひとりでも大丈夫。」と思える強さは、過剰に人間関係に気を使って疲弊したり思い詰めたりしなくて済むよう、人間関係を取捨選択(しゅしゃせんたく)できる勇気になるのです。このように、自分の価値判断基準を信頼し自分らしく生きることは、お金に換算できない成功のひとつの要素でもあり本当の意味での有益な人間関係を築きそのうえで初めて本当の幸せな人生が送れるのではないでしょうか。