松村堂

気になることは、気にとめる事にしました。

自分は本当に時間を大切に使っているか?

 

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 昨日なにげに、カードの引落し口座を変更しようと思い早速、手続することにしました。しかしながら「また、クレジット会社に電話して書類を送ってもらい記入して返信か面倒だな~・・・。」と思いながらスマートフォンでクレジットのアプリをいじっていたら「照会・変更」なるボタンが出てきました。「ひょっとして!」と思いどんどん進んでいくと驚くことに簡単に新しい引落し口座に変更できちゃいました。「これは便利!」こうなったらひとつにまとめちゃえ!と今までバラバラの引落しをしていたクレジットを一気にひとまとめにしちゃいました。すると妙な達成感がなぜか湧いてくるから不思議です。それにしても便利な世の中になりましたよね・・・。さて今回は、そんなスマートフォンをいじるというかSNSなどが、いったい自分の一日にどれくらい時間を割いているのでしょうか?またどの程度までがベストなのか疑問に思い少し調べて見ることにしました。

 

スマートフォンをいじる時間の善悪分岐点

 そもそも時間の使い方というのは、生きて行くという行為そのものです。それは自分の時間をどう使うかの判断と累積が、自分の人生を構築しているからです。ここでの判断というのは、何をして何をしないかです。たとえば、今日フェイスブックやネットサーフィンに1時間費やしたとしたら、その1時間があればできたはずのことを捨てることになります。つまり何かをするという行為は、何かをしない・・・。もしくは諦める・・・。ことであり、その判断の積み重ねが、今の自分の状態を作っているわけなのですです。

さらに累積というのは、今までやってきたことの積み重ねです。たとえば、英語の学習を3年間続けて英語ができるようになった。転職の選択肢が広がり、その結果よりポジションや収入が高く、やりがいのある仕事に就けたとします。この場合、英語の学習をしなかった人と、続けてきた自分との間に差ができるというのは当然の事です。そして学習期間の3年間なんて、過ぎてみればあっという間であることに焦りを感じても、それはもう後の祭りです。

 

大切な事は誰も教えてくれない

 特別な目標や意思がなくても、人は生きていくことはできます。要するに意味のあることをしてもしなくても、年月は過ぎていきますからね・・・。そして幾ら沢山のものを取り込もうとしても、作物同様に蒔いたものしか刈り取ることができません。ほうれん草の種を蒔けばほうれん草がとれる。スイカの種を蒔けばスイカがとれる。何も蒔かなければ、当然ながら何も刈り取ることはできないのです。

 

自分の蒔くべき種を考える

 それでは自分は今、いったい何の種を蒔いているのでしょうか?3年後5年後の未来につながる何かに取り組んでいるのだろうか。しかし、何の種を蒔くかは、実際のところ誰も教えてくれません。もちろん期限もありませんし、催促されることもありません。すべて自分自身で探し、選び、決断し、実践していくしかないのです。しかし一方では、何も蒔かなくても「しなければならないこと」は次々と出てきて、それらをこなすだけでも1日は過ぎていきます。まさに正しくない忙殺です。

 

日常の正しくない忙殺

 朝起きて朝食を食べ、会社に行きます。そして午前中は会議や報告書の作成に追われ、昼になれば同僚とランチをしてとりとめもない談笑に雑談。午後は商談や経費精算といった雑務などをこなすうちに、気か付けば終業時間がやってくる。退社後はコンビニに寄って携帯電話の料金を支払い、夕食を買って帰路に就く。帰宅したらテレビを見ながら食事をし、その後はスマホでLINEをしたり、パソコンでネットサーフィンしたりしてあっという間に時間は真夜中。そして、正しくない忙殺の明日に備えて就寝。こうして、3年や5年はあっという間に過ぎていくのです。

 

最後に

 確かに仕事上のしなければならないことや、上司から指示されたことをこなすだけでも、充分に頑張っているという実感を得ることはできると思います。しかし、そうした課題や仕事をどんなにこなしたところで、自分が困る状況は回避できたとしても、自分がバージョンアップするようなチャンスに巡り合える機会はそうないでしょう。自分が意味のあることをしても、意味のないことをしても、等しく1日24時間は過ぎていきます。努力をした人の3年間も、しなかった人の3年間も、同じ3年間。でもそれが、人の人生を決めていきます。僕自身も、危機感を感じながら今どんな種を蒔くべきかを必死で考え、試行錯誤に苦しんでいます。